9.ハジャイの朝

前回:KLを出発してタイへ

  タイ南端の街、ハジャイに着いたのが午前7時を過ぎた頃だった。日が昇っていることに一安心はするけれど、両替をし損ねているのでタイでは一文無しである。バスの小さな営業所以外、まだ街は閉まっていて、さらに悪いことに英語はもう通じない。

  ハジャイはタイだという以外は特段これといったところのない、小さな地方都市だった。二階建ての色落ちした商店建築が通りの両側に並び、四、五階建のビルがいくつか見える。相変わらず熱帯の太陽は強烈で、アスファルトに反射してほとんど白色に見えた。陽が昇りきってしまうと荷物を背負って歩きまわることはかなわない。ひとまず宿を探すことにした。かろうじてアルファベット表記のある、路地の奥の小さなゲストハウスを訪ねてみるが、どうも話が噛み合わない。相手がタイ語を喋るから当たり前ではある。金額も思ったより高めであった。

  店が開き始めるのを待ちながら、同じように要領を得ない宿探しを続けていると、国鉄の駅の前に出た。タイでの移動は国鉄を使うつもりだったので、下見をしておくかと思っていると、バックパッカーの女の子がトゥクトゥクの客引きに苦戦していた。話しかけてみると彼女はドイツ人で、鉄道で南下してきたという。

  我々は駅の脇の、開いたばかりのコーヒースタンドでアイスコーヒーを飲み、彼女は際限なくタバコを吸っていた。あいにくの一文無しだったので彼女が二人分を払ってくれた。申し訳ないが仕方ない。彼女はタイより北の東南アジアの見どころをくまなく教えてくれた。いわくハジャイは特に見どころはないそうだ。タイ中部のスラータニーのゲストハウスは綺麗でとても快適だとも言っていた。これも何かの縁だと思い、このまま次の列車でスラータニーまで行こうと決めた。ハジャイでの宿探しにも辟易していたので丁度よかった。

  ドイツ人と別れた頃には、店もぽつぽつ開きだしていた。何か所かを回って、一番レートの良かった中国系の両替店でなんとかバーツを手に入れた。筆談と身振り手振りをフル活用した。店員はみんな優しかったし、Wi-Fiを教えてもらってGoogle翻訳を使えるようになると全ては解決した。結局この両替所はタイ国内のどこよりもレートが良かった。両替所のWi-Fiで宿の予約もできた。電車の時間まではまだしばらくあった。

  タイ国鉄は驚異的に安かった。4時間の道のりが300円弱で乗れてしまった。ホームには果物や野菜や握り飯を売る売り子が暇そうに列車を待っていた。電車は当然のように何十分も遅れていた。まったく驚きはしないが、放送を聞き取れない身としては神経は張り詰めざるを得ない。こういう場所での失敗は命取りになりそうなのだ。  タイの気楽な日差しとこの緊張感は奇妙なミスマッチだった。

   ホームのおばさんからフライドチキンと握り飯を買い、マレーシア人と間違えられたりもした。俺はそれを否定するタイ語も知らなかった。「ありがとう」しか知らない。そんなこんなしながらも、ちゃんと10時半には北へ向かう列車の木製のシートでタイ人とお天気の話なんかをしていた。もちろんグーグル翻訳で。

 

8.KL

前回:クアラルンプールに到着

 マレーシアの人はクアラルンプールのことをKLと言う。クアラルンプールをどういう抑揚で言ったらいいのか結局解らずじまいだったので、俺もKLKLと言っていた。KLに来るのは2回目で、前回と同じ宿をとったのでもうホーム感がある。前回はヒッチハイクをしようと3人で集合した時だった。結局この3人はその次の朝には分裂するんだけれど。

  マラッカの時もそうだったけれど、街に着いてしまうと途端に書くことが無くなる。KLでも相部屋のパキスタン人と少し喋った後は、ロビーで買ってきた晩飯を食べながら、やり残してきた学校のレポートを書いていた。オーバーツーリズムについてのレポートで、バックパッカーをやりながら書くとなかなか趣深いものがある。結局、次の夜にタイまで行くバスを予約してはじめて、少しそれらしく街を見て回ることができた。まるでこの旅のメインは移動で、出発がクライマックスのような気がしてきた。観光や現地体験はすべて出発のためのお膳立てなんじゃないかとすら思えてきた。

  KLは急ピッチでモダナイズしていた。街全体が渋谷の東側のようだった。ありとあらゆる場所が工事中で、街自体が工事現場の休憩所のようで、どこも土埃で煤けていて活気があった。煤けていない部分は工事を終えてつるつるになっていた。コンクリート護岸にびっしり落書きされたドブ川の橋のたもとの観光案内所は、京都のどの案内所よりもシュッとしていた。

  あと何をしただろう?モスクを見た。駅舎建築を見た。ドリアンアイスクリームを食べた。ドリアンはシンガポールにいる間、食べてみたいと思い続けていたが、まだ叶っていなかった。ドリアンは別に美味しいとは思えなかった。不味いとは思わなかったが、変な味だった。でもこれをアイスクリームと一緒に食べると最悪だった。ドリアンはなんとか完食したけれど、アイスだけはどうしても食べ切れなかった。単に不味いアイスクリームだったんだろうか?

  最後に残った時間を使って、有名なペトロナスツインタワーを見に行った。ツインタワーのふもとはつるっつるな側のKLだった。銀座と同じくらいつるっつるだった。けれども肝心のタワーは真下すぎてよく見えなかったし、かろうじて見えたのは一本だけだった。(どうやらちょうど被る方向から見ていたみたい。)生憎雨も降ってきたので(雨季だから)、諦めてバスターミナルへ向かうことにした。

  KLのバスターミナルはめっちゃくちゃ綺麗だった。新宿や池袋の駅なんかよりずっと綺麗だった。Wi-Fiも繋がって、KLで一番安心感のある場所だった。

  さらばKL。ある街から離れるこの瞬間が一番旅らしい情緒を感じられる。バスターミナルの両替所はシンガポールドルを受け付けてくれなかったので、タイでは無一文からのスタートになりそうだったけれど、今回はちゃんと時間を計算して予約したので真夜中に着く心配だけはなかった。そうやって、次の日の朝焼けを見ながら検問所に並び、午前7時にタイ南端の街、ハジャイに着いた。

7.雨季

 前回のあらすじ: ポートディクソンまで乗せてもらう

 ポートディクソンはリゾート地らしかったが、俺が降ろされたのはあんまりリゾートっぽくない町外れのガソリンスタンドで、その次に止まってくれたのはバイクの兄ちゃんだった。以前、体感80キロくらいでぶっ飛ばすスピードメーターの壊れたカブに拾われて死を覚悟した記憶があるので、バイクには出来るだけ親指を立てないようにしてきたのだけれど、止まってくれたあんまり言葉の通じない人を無下に断るわけにはいかなかった。しかも結局彼は俺を交通手段に困ってる計画性のない人としてしか理解できていなかったらしく(事実でもある)、数キロ先のポートディクソンのバスターミナルに降ろしてくれてしまった。

 もうなんかヒッチハイクも面倒くさくなっきて、バスの出る1時間後までに次の車が捕まらなければ大人しくバスに乗ろうときめたのだけれど、そういう時に限って中途半端な車が捕まるもので、咳止めを買いに行くおじいさんにまたほんの数キロ乗せてもらった。スコールの嫌な予感の中、路上で手を上げていると、薬局が閉まっていたらしいさっきのおじさんがまた次の薬局まで乗せてくれた。ひょっとするとこのまま薬局伝いにクアラルンプールまで行けるかも、と思ったけれど、全くひょっとはせず、結局ターミナルの3つ程先のバス停まできた所で遂に本格的なスコールを食らってしまった。午前中のコストコでのスコールは今回のに比べると霧雨みたいなものだった。今日中にKLにつけなければ怪しいホテルを訪ねてまわる旅が待っていると思うと、ヒッチハイクポリシーはあっという間に覆った。ひとり旅なんて所詮そんなもの。

 そもそも雨季のヒッチハイクが無謀だったのがよく分かったのはバスがあらゆる道が冠水した田舎を走っている時だった。バスは床上浸水していたし、(エンジンとかは大丈夫なんだろうか?)運転手は冠水した道路と脱輪したバンのムービーを撮ってインスタストーリーにアップしていた。途中名前を忘れた町でバスを乗り換える頃には雨はすっかりあがっていて、俺は日没の少しあとになってKLに到着した。東南アジアの大都市は歩行者に優しくない事で有名だけれど、人が沢山いるというだけでものすごく安心感があった。

 

6.コストコ

前回のあらすじ: マラッカを駆け足で観光

 さすがに早くから起き出すことはできなかった。さすがにと言ったって、もともと早起きなんてついぞしたことはない。10時前くらいに起きて、昨晩コンビニで買った1斤の食パンを2枚くらい食べる。

  マレーシアはマレー、イスラム、中華、ヒンズーでひとセット。今日は前日見れなかったヒンズー寺院と緑瓦のモスクを見学する。ヒンズー寺院は入り口がはっきりしている。その一箇所以外はのっぺりとした塀で、入り口だけがゴテゴテと飾り付けられている。そこから入った真っ直ぐの所にもう一つ内陣のような場所があり、そこにおなじみのシヴァ神が祀られている。朝だからか人気はなく、薄暗いタイルの敷きの室内を上裸のいかにもな僧侶が花とかバナナとかろうそくとかを運んでいる。マレーシアのヒンズー寺院は典型的に、小さめの内陣が敷地中央にあり、奥の塀沿いには沢山の祠が並んでいて、この部分は露天になっている。手前の左右にも大きめの祠がある。大小の祠の前にそれぞれ供物が供えてある様子は、なんとなく日本の神社を思わせる。きっと多神教だとみんなこうなるのだろう。

  緑瓦のモスクにも人は少なかった。外からだと瓦を乗せた白い塔がやたら眩しく目立っているけれど、境内に入ると三方が開放されている正方形の祈りの空間の方がずっと存在感がある。木造の空間に濃青のカーペットが敷いてあり、多重塔の要領で作られている高い屋根の下は非常に心地よさそうだったし、その奥には水浴び場があったけれどこれがとても豪華で、ちょうど日も当たっていてちょっとした宮殿のプールといった感じだった。モスクの方はヒンズー寺院よりもずっと明るくて長閑だった。

  マレーシア国内はヒッチハイクで乗り切るつもりだった。幹線道路に出るためにしばらく歩くと、マラッカは小さな街で、20分ほどでもう街の果てといった雰囲気になった。親指を立てながら歩いていると、おっちゃんが止まってくれた。「学校へ行く」と言うので子供の送り迎えかとおもったが、彼はそこから2キロほど先のコストコに連れて行ってくれた。何をどう聞き間違えたのか。巨大なコストコだった。駐車場を含めると多分マラッカの旧市街よりも大きかったと思う。その次はなかなか捕まらなかっただけじゃなく、スコールまで降ってきた。バス停に座っていても十分に濡れた。12月はマレーシアの雨季だった。始めて1時間あまりで、ヒッチハイク計画は文字通り暗雲の下だった。エンストしたオンボロを4人で押す若衆が通り過ぎたりもした。そんなふうにしてしばらく粘っていると、ウーバー運転手のおばちゃんにポートディクソンまで乗せてもらえた。ありがたいことこの上ないけれど、ウーバーがヒッチハイクに止まっちゃダメなんじゃないのか。

  

 

5.マラッカ

スマホがブラックアウトするようになったので新調したら今度はラップトップが壊れました。どうも、デストロイヤーいせきです。ラップトップはセメダインでくっつけています。百円ローソンで買ったガラスタイプの液晶フィルムは、二つ連続で開けた時からバキバキでした。最近はこんなんばっかり。

前回の要旨:宿にチェックインした。

 

  荷物を置いて30倍くらい身軽になって薄暗いロビーから出ると、外はもう完全に昼間で太陽は流石熱帯といった感じで、明暗差に慣れない目に景色は真っ白だった。あの黒とオレンジの夜から連続して存在する空間であるのが不思議な気がするほど。二つくらい角を曲がるとそこはマレーシア有数の観光地のど真ん中で、観光客で溢れかえっていた。世界中どこへ行っても彼らは同じような顔で同じような歩き方をしている。数時間前には不良少年くらいしかいなかったのに、祇園祭並みの人混みでちょっとげんなりする。ディズニーかなんかのキャラクターで飾られた人力車がパチンコ屋もびっくりな音量で音楽を流して行ったり来たりしている。そして日が暮れるとパチンコ屋もびっくりの光量のネオンをぴかぴかさせながら、やっぱり行ったり来たりする。

  その日の残りは、観光客らしく博物館やら王宮やらを巡って過ごした。観光体験の部分については、旅のに比べて驚くほど言うべきことがない。マラッカは海峡貿易で栄えた港町で、港の見える丘に教会とか博物館とか旧総督邸とか、大事そうな建物が並んでいて、丘の海側には王宮の復元が建っているけれど、それが元々そこにあったものなのかはよく知らない。丘と海の間にどでかいショッピングモールが通りを挟んで2つあり、それを両方隈なく歩き回った末に、やっとこさ地元の人が使うフードコートを見つけて安い昼ごはんを食べた。マクドナルドではコーラしか頼まなかったからとても空腹だった。

  マラッカ海峡に注いでいるそれほど大きくない川があって、その川を少し遡ったところに旧市街がある。中国と熱帯アジアが融合したような町で、プラナカン文化というらしい。多くは俺の泊まっている宿と似た、京町家のような作りになっていて、ギャラリーとゲストハウスが多かった。夜は夏祭りのような夜店が通りを埋め尽くす。夕暮れごろ、インドネシア人観光客に道を聞かれた。マレー人に見えたらしい。

  少し義務的な感じでマラッカの見るべきものを巡ってその日は終わりにした。明日は見切れなかったモスクとヒンズー寺院を見たらすぐにKLへ行く。

 

4.リンダリンダ

前回:午前3時にマラッカに到着

 タクシーを降りた場所はマラッカの中心の小さな川にかかる小さな橋のたもとだった。ハードロックカフェの前で、細い通りを挟んだ向かいにはH&Mが建っていたが、当然どちらも閉まっている。小さなラウンダバウト的な交差点の斜向いの赤い壁の歴史的建造物風ビルには「明の鄭和寄港から633年」という垂れ幕がかかっていた。(正確には覚えていないけど、相当きりの悪い数字だったことは確か。)街の中心にきてもやっぱり真夜中であることには変わりないけれど、起きている人の気配はあってそれだけで十分に安心する。二人のおばさんが取り掛かって、道端のビニールゴミをちょっとだけ漁ってから通り過ぎる。夜行バスを宿代わりにするつもりだったから依然として行くあてはないけれど、川沿いのカフェではおそらく観光客と思しき人達が飲んでいるのでなんとかはなりそう。

 とりあえず橋を渡って向こう岸から(時刻にしては)賑やかなリバーサイドを眺める。歩いていると、溜まっていた10人ほどの地元の少年たちに呼び止められて、「観光客か?ブログにアップするから一緒に踊ってくれ」と言われたので快く承諾した。真夜中に巨体のマレーシア人少年と踊る俺の動画が、インターネットの海のどこかに存在しているのは奇妙な感じがする。適切なキーワードで検索すれば(もちろんマレー語で)たぶん俺の人生で最もコンテンツに満ちた夜が20秒間分切り取られて浮かんでいるはず。

 終夜営業の廉価なファーストフード店を紹介してほしかったので、しばらくこの地元の少年たちとつるむことにした。彼らの遊びはペットボトルをルーレットにして罰ゲームをさせるというシンプルなもので、さっきのは通行人とおどる、という罰ゲームだったみたい。DQNやん。俺が加わったことで次の罰ゲームは「日本の歌を教わって歌う」になった。中に日本語選択の子がいて、Kiroroの「未来へ」を少し知ってたからそれを教えようとしたけれど、そもそも外国の曲覚えて歌うとかできんくない?っていう懸念どおり、案の定諦めてブルーハーツに頼ることにした。そいつは対岸のカフェに向かって「俺は!今から!日本の歌をうたうぜ!」って宣言して大声でリンダリンダを歌って、さっきと同じようにその動画もインターネットの海に放り込まれた。いいやつらだけれどやることはやっぱりDQN

 我々一行はそのあとマクドナルドに向かった。人もいなくて、車もいない夜の観光地を、十人の陽気な不良少年と(タバコとかも吸ってたからきっと不良少年なのだろう)とバックパッカーがお互いについて質問し合ったり、ふざけたり、奇声をあげたりしながら歩く。全寮制の男子校に通う彼らはもうすぐ卒業して、それぞれ仕事につくらしい。きっといまがスーパー青春真っ盛りなんだろうな。

 あたりが明るくなる頃までには少年たちは三々五々に帰っていって、最後に残った3人も7時にはじゃあねと言って別れた。俺はまだまだ人の少ないマラッカを2,3回道を間違えながらもとのハードロックカフェに戻り、ゲストハウスに行ったけれどまだ空いていなかったので近くの点心と飲茶の店で朝食を取りながら時間を潰して、向かいに緑の瓦を葺いたモスクがあって、それをスケッチしているうちにゲストハウスが開くので荷物を置いてシャワーを浴びた。ゲストハウスはマラッカ風町家(ショップハウス)を改装したもので、間口が狭くて奥に長くて途中に光庭があって、もし床と畳を張ればそのまんま京都のやつとして通りそうな造りになっているのだけれど、その二階がぶち抜かれて20畳ほどの空間になっていて、その壁沿いにベッドが10台くらい並んでいて、宿というより兵舎のような雰囲気だった。なにせほぼ眠れていないから眠いし、テンションは不良少年たちと使い切ってしまっていたから、すぐにでもこのエモいドミトリーを活用したかったけれど、旅の1日目はまだ時間を惜しむくらいのモチベーションが残っているので、9時間ぶりのwifiを使ってその日の予定を立てた。9時間というと全く大したことがないように聞こえるな。

 

3.セントラルバスターミナル

東南アジアの高速バスはとても快適です。シート幅は十分にあって、3年間アメフトをしていた俺でも寝返りをうてるほどで、更にリクライニングは150度くらい倒れるから、車内の効きすぎた空調にさえ気をつければ目的地まで熟睡できる。でもトイレ休憩は運転手の尿意によるし(バス自体はトイレ付だったかもしれない)、何より明け方に着くように到着時間を調整してくれるといった心遣いは望むべくもない。そのことに気づいた時には運転手の「マラッカ!」の声で叩き起こされて、なんにもないマレーシアの郊外の道路脇に放り出されていた。大きくも小さくもないバスターミナルが目の前にあったけれど、殆どの電気は消えていて、バスはロータリーに入ろうとすらしてくれなかった。午前三時のマラッカセントラルバスターミナル。

不思議なことに、周りの乗客には一人残らず迎えの車が来ていた。一人くらい同じ境遇のうっかり旅行者がいないかと見ていたら、本当に一人残らず、速やかに、消えてしまった。今思うとこの時、どれかの家族を捕まえて無理にでもマラッカ中心部まで連れて行ってもらうべきだった。でもさっきまでシートが快適とかしか考えずに寝ていたのに、そんなことができるわけがないやろ?

仕方ないからバスターミナルの建物に向かってあるき出したけれど、全く期待は持てなかった。一体どこがセントラルなのか。一番手前の光の漏れ出ている戸口を覗いてみると、ごみ捨て場だった。しかもかなり管理の悪い部類で、床にゴミとか生ゴミとかバナナの皮とかが散乱していた。これにかなり怖気づいてしまった。あまり治安の良くない地域かもしれない。ロータリー前で暇そうに話しているのはぼったくりタクシーの運ちゃん二人で、たまにくる俺みたいなのを待っているんだろう。案の定その一人が、タクシーいるやろ、とふっかけた値段を言ってきた。俺はとりあえず、いらん、一晩中暇やから自分で歩ける、と答えたけれど、電波もなければ地図もなく、夜行バスで宿代を節約しようとホステルすら取っていなかった。どっちに歩けばいいのかもわからないから、どうしようもない。俺は圧倒的に不利だったし、お互いにそれがよく分かっていた。結局少し値切って、彼に連れて行ってもらうことにした。とりあえず、一番中心部まで行ってくれ、と言ったけれど、行くあてもないし、運転手が言った「ヨンカー通りでいいか?」というのが正しいのかどうかもわからなかった。なんでもいいからど真ん中まで行ってくれ、と言って、あとは野となれと投げやりな気分になった。多少なりとも起きている人がいればいいと思ったし、このときばかりはおろしたあり金を全部巻き上げられてもおかしくないわ、と思ったけれど、運ちゃんはちゃんとど真ん中まで行ってくれて、合意した金額しか要求しなかった。マレーシアは治安がいい。

2.国境

最近はいつにも増していろんな人と話すようになった。昨日はスパルタ英語塾の講師と話したし、今日は就活フェアのブースのお兄さんと話してて、新歓テントで痩せた東大生にアメフトの楽しさを説く自分を思いだした。人と話すたびに思うけれど、自分が喋る内容はどうも歯切れが悪い。もっと歯切れよく話したい。

 

前回の要約:もうすぐ退寮(2018年11月)。不法に寮の部屋に一晩とどまった次の日の深夜に、ゴールデンマイルコンプレックス前からバスに乗ってマラッカへ出発する。実はその時、日本の友人たちとコンペをやっていて、その提出がこの深夜だったんだけれど、その時かけた迷惑の話で一回分ブログが書ける。ともかく11時半出発の夜行バスになんとか間に合って乗り込むと、もうwi-fiは通じないのですべての煩悩は忘れるしかない。もうなにがあってもしらんわ、ってなるこの瞬間は一人旅で一二を争う好きな瞬間。

東南アジアの夜行バスはやたら豪華で、シート幅もクッションもたっぷりだからマラッカまでは睡眠時間にしようと思っていたけれど隣に座ったフレンドリーマレーシアンが話しかけてきたので、お互いの身の上とかを話す。クアラルンプール(KL)から来てシンガポールで働いてて、たしかタメだったと思う。故郷に帰って恋人にサプライズをするらしい。指輪?って訊いたけれど、そうではないらしい。マラッカのオススメ料理をきいたけども、結局食べなかったな。

乗ってたバスはKL行きで、マラッカに行く俺は国境でバスを乗り換えなければいけないから、彼とはここで別れる。この乗り換えはかなりの緊張ポイント。前回の国境越えの時はすんでのところで全荷物を置き忘れそうになったし、そうでなくてもバスも人も少ない、ナトリウムランプがやたらとオレンジ色の寂しげなバスロータリーで周りは熱帯の密林だし、深夜だし、乗るはずのバスに置いていかれたら野垂れ死ぬとまでは言わないけどかなりまずい。ちっさいキオスクで両替だけして、何回か人にききながらなんとかマラッカ行きのバスに乗る。今回は誰も話しかけてこなかったので、マラッカまでは熟睡できた。

 

 

1.おみくじ

 このあいだ熱海に旅行に行って、ちょっと市街から外れた伊豆山という、山頂に神社が祀られている小さな山の近くに泊まった。海から山頂まで参道の石段が延々と続いているような場所で、脇の斜面の民家には大抵庭があって柑橘類の実がなっていて、シンプルな尾道みたいな場所で冬の小春日和が日本一似合うような場所で(きっと他の季節にも違った魅力があるはずなんやけど)要するにとてもよかった。で、なんでこんな惚気みたいなことを書いているかというと、その石段を登りきった先の神社でおみくじをひいて、結果は特に何ということはない中吉やったんやけど、その中に「失せ物 人の手にある 出にくい」とあったことを思い出して、それでいまこのブログを書き始めたから。

 というのも、ここ数ヶ月使っていた小ぶりのノートが行方不明になっていて、(持ってる人は素直に名乗り出てほしい)そこに二ヶ月前の一人旅の顛末をせっせとメモしていたんです。旅行記を書くのは某TRN-にリクエストされつつめんどくさいわと思って放置していたんだけど、それもメモを見返せばいつでも、と思っていたからで、それが人の手にあるとなれば誰がそれを基に群像新人文学賞を獲ってしまわないとも限らないし、そんなしょーもない冗談を抜きにしても自分自身の記憶力の頼りなさは一番よくわかっているので、とにかく覚えているうちに書かねばと重い腰をあげようとしています。二ヶ月前と言っても実際に出発したのは三ヶ月近く前のことで、そう思うと始動が遅い俺の良くない癖が存分に発揮されていて嫌になる。そういえば前回書いた休学の件、無事できそうです。よかった。それはさておき、実は出発の前日にブログを書いています、もう自分でもほとんど覚えていなかったけれど。それがこちら。
mixologist2828.hatenablog.com

この単位は無事Cという俺らしい成績でなんとか回収できていました。未だにThe 1975のこのアルバムは熱心に聞いています。一つのものにハマるたちなので。

 俺の寮は4人部屋で、このときは俺を含めて5人がいました。俺が入った時に唯一先に入っていたのがベトナム人のAlexで、本名は武といって明らかにそっちのほうが格好いいけれどその格好良さはごく一握りの東アジア人にしかわからないし、解った日本人にしても、何回聞いても発音できるようにはならなかったから、通名を使うのはまあ仕方ないのだろう。Alexは俺よりも5日ほど早く退寮していたけれど、当てにしていた「友達の家」に断られて1週間ほど不法滞在していた。清掃員の気配を感じる度に慌てて荷物を隠して逃げるのは古典的なコメディー映画みたいで面白かったけれど、2日前に新しいタイ人が入ってきたのでついにベッドまで失って、後輩のベトナム人と二人で一つのベッドで寝ていた。(それまで俺以外の3人はみんなベトナム人で、Alexは最年長だった。10歳近く年下だった後輩にしたらいい迷惑やったはず。)そういうルームメイトに、最後だったので近所のスーパーでスーパードライかっぱえびせんを買ってきて、(シンガポールではどこでも日本食が手に入る)ベトナム人たちがマーケットで買ってきたすももも加えて、朝焼けがわかるくらいまで話し込んだ。言葉の違いの話とか、タイの兵役の話とかいろいろあったけど、大部分は忘れてしまった。大事なことはすぐ忘れる。大事なものもすぐになくす。Alexは歴史と言語に造詣が深いので、なにを話していても言葉の成り立ちの話になる。知的な武。タイ人はプーケット出身だったから、タイに寄るつもりだったからプーケットのめぐり方をあれこれ聞いた。でも結局プーケットには寄らなかったな。

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その朝の夜明け前。11月30日の記事の括弧のなかにある「お別れビアー」の顛末はこんな感じ。なかなか出発できないな。

痛恨のミス/相対的な人間

痛恨のミスを犯してしまった。もっとも月一くらいでこの手の痛恨のミスはやらかしてるけど。春から休学するつもりでOKB先生に「そのことで相談を」ってメールしたら「なにしてんの、期日明日やで」と。そろえなあかん書類はもう間に合いそうになく、「すんません、やっぱ今回無理そう」。すでに奨学金の期日もやらかしてのがしてるので、もう大学院計画はぐだぐだです。もとはといえば教務のHPに「一ヶ月前くらいかな」みたいなテンションで書いてあったからそれを信じ切ってたのが原因なんやけれど、大事なことってほとんどHPに書いてないよね。便覧のPDFくらいアップロードしておいてくれていいのに。本郷ならこういうときすぐに教務課に行けるし、そもそも休学しようと思った時にオフィスに聞きに行けるんやけど、柏はなー… 新領域に進学してからできるだけ柏に行かないで済むようにしていたんやけど、最近それで不便を被ることが多くなってきた。それでも柏に通おうとは思えないけれど。しかしまったく、これから社会に出てまともに生きていけるとは到底思えない。うっかり脱税とかしそう。

俺が柏に行きたくないのは、もちろん遠くて高いっていうのもあるんやけれど、人がいない、っていうのが一番大きいと常々思っている。本郷より院生室の割当は大きいし、製図室も一応あるし図書館もあるから、居心地はいいはずだけれど、北千住から1駅のところに柏があったとしても行きたいとは思わないだろう。あの寒々とした駐車場とか人のいない院生室とか研究室とか、どうも耐えられない。隣に60Hz貧乏ゆすり野郎が座ってきたとしても総合図書館のほうがいい。RKWさんにその話をしたらあんまり理解されなかった。もっともRKWさんとは意見が食い違うことの方が多いから、とくにどうというわけでもないけど。

人の少ない場所にいるのは、寂しい。一日中誰とも話さない、とかの寂しさとは違った意味で寂しいし、俺の場合前者のほうが不快に感じる。人気のない田舎で暮らさなければいけない寂しさと、友達もなく一人で満員電車に揺られる寂しさ。カフェで勉強したり仕事したりしてる人も俺と同じタイプやと勝手に思っている。はいそうです、カフェ勉強するタイプです。自意識が強いんだろうと言われれば特に否定もできないけれど、少し違うような気もする。俺は相対的な人間なんじゃないかと思う。社交的とか、評価を求めているとかとはちょっと違って、相対的。どこにいてもだれといても、やるべきこと、やりたいことを遂行できる人たちがいるというのはなんとなく感じるのだけれど、彼らは「絶対的」な人間なんじゃないかな。俺は周りに人がいて、その人達の仲間としては存在していなくても、比較したり自分の立ち位置を確認したりできる環境が必要なのだと思う。

ということで、俺が書類の期日を逃し続けるのは人気(ひとけ)のない柏にキャンパスを作ったやつが悪い。しらんけど。