でもあれやんな、もう社会人やねんな

でもあれやんな、って言いますよね、って言われて、口癖発見大会が始まった。関係ないんですけど、って言うよね、あいつ、最初絶対、あのわたし、って言うな。俺はなんて言ってるやろ。話始めの一語は注目を惹くためにあるので意味はあまりなくて、何を言ってもいいという結論が出た。意味の少ないしるしみたいな言葉なのに、わりと人それぞれなのが、思考回路が現れているみたいでおもしろい。

 

アカウントを持っているSNSをフル活用して自分の配属先を宣伝した。そうでもしないといつのまにか消えた人みたいになると思った。そういう連絡はなんかわざとらしい気がしてあまり昔から好きでは無かったけれど、社会人は好き嫌いに関わらずいろんなことをするもんだという考えがある。目の前にいない人への想像力が乏しいのか、一度会わなくなった人とは急に疎遠になることが多かったし、久しぶり!っていう連絡は柄に合わないような気がしていて年賀状なんかもろくに送ってこなかったけれど、覚えていたいし覚えられていたいのは誰しもでしょう。常識や儀礼にはそういう柄に合わなさみたいなものを無視して進める強さがあって、社会人の堅苦しさもわるくない。一挙手一投足がすべて属人的だとしんどいんやなと今更ながら気づく。堅苦しさって、意外と便利な鎧なんすねー、重いばっかだとおもってましたけど。

 

「人生なめたらあかん」と太マッキーで書かれたハガキが家の柱に貼ってある。一級建築士試験をさぼった同居人が受験票に書いて戒めにしていたもので、私が出願手続に失敗したのをききたつけて、くれた。人生なめたらあかんあげますよ、たしかに今年はおれやなあ、一年間もらっとくわ。これまでわたしの戒めだったものは、卒業制作の時に後輩に作らせてそのまま没にした模型で、本棚やベッド脇に飾ってあったけれど、最近は思い出やなあくらいに薄れてしまっていた。喉元過ぎどころかもう小腸くらいにまで達していて、ほかのなんやかんやの経験と一緒に消化されつくしている。座右の戒、人生なめたらあかん、です。

 

でもあれやんな、気づけば建築設計からどんどん離れていくよな、昔はアトリエ所員になると信じて疑わなかったのに。好きか嫌いかでいうと設計課題はかなり好きだったけど、それは考えることがいくらでもあるからだった気がする。調べたり纏めたりではなく、純粋に考えることができて、しかも何を考えても良かったあたりとか。いつも、模型制作やパース描きといった、考えを形にする作業はあんまり気が進まなかったので、建築設計が好きかどうかとは別の話なんだろう。まあ全く設計しないと決まったわけでもないし。

 

通勤時間があるので本を読んでいる。もちろんゲームもしてるけど本も読んでる。文芸賞芥川賞コンビの改良とかか、あと紀伊國屋の一階でジャケ買いしたナイジェリア→アメリカ移民の人の短編集、これはまだ途中。遠野さん、話を広げて畳むのの周到さとダイナミックさ。変な揺れ方するなと思ってた午後のローカル線がいつのまにか都心を走ってて満員、終電、人身事故。宇佐見さん、言葉の一音々々の力が強烈、普段喋ったり書いたりしているのと同じ言語だと思えない。同じくらいの長さの短い小説だけれど、かかは読むのに倍くらい時間がかかる。

 

大阪に行きます。でもあれやんな、大阪、いちばんわからんよな、イメージに経験が追いついてない。東京に住んでても京都に住んでても、大阪に行く用事なんてほとんどないからな。関西のひとの東京に対抗心燃やすっていうおきまりのやつはもちろんあるけれど、七年で東京のことはとても好きになった。もともと人の多いところが好きだったし、まとまりがないかんじとか、無駄に頑張ってる感じとか。文藝で柴崎友香さんと岸政彦さんの大阪っていう連載があって好きで読んでたけど、東京についてなら結構書けるかもしれない。